一、 ざわざわと、風が木々を揺らす。その風に乗って、枝を外れた木の葉が流れる。 今宵は、朧月だった。 木々の音が更に響く。その度に、身体は緊張を覚え、感覚が研ぎ澄まされていく 。 心に乱れは無い。 積み重なった経験と、後先に恐れを持たない心情。必然と、心に余裕が有った。 電灯の光さえも届かない暗闇を、仄かな月明りを頼りに二つの影が進む。 「此処じゃろう、朧」 先を行く低い影が四つ脚を止めた。 黒い耳をぴんと立て、辺りを伺う様な素振りをした。 後に続いた少年も足を止め、辺りを見回す。 辺りは、木々。そして、闇。 刹那、黒犬が静寂を裂く様に激しく吠える。 闇から、同じ闇色をしたものが躍り出た。 少年は肩にかけた長い包みを剥ぎ取る様に外す。中は、日本刀だった。 迫る闇色に向けて、刀を閃きざまに放つ。 闇が歪み、散る。 はらはらと、花弁の様な散り様を残した。 ふと、大きく闇が蠢き始める。 そこから、獣の様な図体が姿を見せた。 闇色の獣が、唸る。 ぐるぐると地の底を震わせ、少年と黒犬を飲み込まんばかりに響いた。 その声に混じって、鼻を突く空気が漂う。 「…死臭。もう何人を喰ろうておるのか」 「……」 少年は静かに刀を構え直した。 「…闇に還そう。彼は、もう戻れない」 少年の刀が、月明りに閃いた。 * 街を染めた桜色も、徐々に若葉色に変わりつつあった。 京都の街は、いそいそと夏仕度を始めている。 そんな街の外れ、取り残された様に春を見せる一角があった。 古く、それなりの広さを持つ屋敷。その庭にただ一本咲いた大きな桜の木は、春 の終わりを感じさせない。 「今年も、まだ咲いているな」 地に撒かれた花弁を掃きながら、銀髪の青年が呟く。 「もう名物となっているぞ。昨夜など、うるさい花見客が居座っていたから追い 払ってやった」 「いい気なものよのう、右京。我等は妖(あやかし)と対峙しておったというに、 お主は酔っ払いの相手か」 縁側に寝転がり、女は皮肉を並べる。そして、短い黒髪を指で遊び始めた。 「うるさい、左京。我には家を守る義務があるのだ」 「意味がわからんわ、小姑め。さっさと飯の仕度をせい」 「まだ昼前だろう、大飯食らいが」と、青年はふいっと縁側に背を向け、また黙 々と花弁を掃き始めた。 「…朧、さっきから何をぼんやり考えているのじゃ?」 「……うん」 縁側で小さく座る少年は、少し呟いた。 「…この桜は分かってるんだよ、僕が歳を重ねる日を。ちゃんと教えてくれてる 。僕に残された、時間を」 「朧…あのな……」その沈み顔を見て、また胸がぎりぎりと締め付けられる。 歳を重ねるごとに、その顔から笑顔が奪われていった。 見守る二人は何もできないまま、ただその歳を数えるしかなかったのだ。 「…分かってる。自分が、よく分かってる」ふと、縁側にこぼれた花弁をひとひ ら、摘み上げた。 「…僕は、もうあと一年と保たない」 * 五十嵐 朧、齢十七歳。 京都の外れ、残春の屋敷の主である。 居候は二人。 銀色の長髪を持つ青年、右京。そして、黒髪の短髪を持つ女、左京。 いずれも、髪と同じ色をした獣に近い耳と尾を持つ、人ならぬものである。 彼らは「犬神」と呼ばれるもの達だ。縁あって五十嵐家に遣える身である。 この三人がひっそりと身を置く、この屋敷。元は、もう一人の住人のものであっ た。 名を、霞 桐也といった。 朧の母、沙依の兄。つまり、朧の叔父にあたる人物だ。 幼い頃、両親を亡くした朧を自ら引き取り、この屋敷で養ってきたのである。 しかし四年前の春、突然この屋敷、いや、京都の街から姿を消した。三人の捜索空しく 、今に至る。 それからというもの、朧の様子は変わった。 元から穏やかで、静かな気性の朧は、だんだんと塞ぎ込むようになった。 今では、めったに笑うことがない。あっても、それは弱々しく儚げに散り行く。 その全ては、彼が生まれもってして背負う、『運命(さだめ)』にあった。 戻る。