鼓膜が急に震動した。


失いかけた自我を奮い、恭平は無我夢中で身を起こす。


「悪いけど、返してもらうよ。それでも、何か雇主の大事な存在らしいからさ」


リビングの大きな窓を破り、見知った顔がそこに居た。


「煩い煩い煩い!!!愚かな夢操師!!『贄』を捧げないと『贄』を『贄』を!!」


気道が軋む。

ぎしぎしと、氷の指も中の骨が軋んでいる。


「私は選ばれた!『あの方』に償いを!!『贄』『贄』『贄』『に…」



乾いた音が、貫いた。



恭平の目の前が、赤く染まる。


首に違和感を残し、優子の身体が、離れていく。


時の流れが狂ったように、ゆっくりと情景が流れた。



「…だから?知らないよ、君の事情なんて」


「ぁああああぁぁ!!!!!」


どたっと優子の身体が床に投げ出され、のたうち回る。





幸季の放った何かが…『優子の前腕を貫いて』……………





「っげほ!!!」

急に行き渡る酸素に、噎せ返る。


身を起こしたのと同時に、首から氷が落ちた。


貫かれた、腕。主から離れた腕が、ごとりと、横たわった。


「ぅ、うわぁああ!!!」


思わずおののいた。



う腕が優子センパイの腕が離れて血が赤くて赤くてそこに何で何が赤い………



「ほら、早く立って」


いつの間にか横に居た幸季は、手を差し延べることもせず恭平を見下ろした。


その右手には、鈍い銀色をした、拳銃が握られている。



これが優子センパイの腕を腕を…離……血が…赤い…血……



「な…なな何してんのさ……!!!何なんだよそれ!!優子センパイが!!腕が …血が……!!」


がたがたと震えている。
恐怖と憤怒が混じり合い、不可解な情景をさらに不可解にねじ曲げる。


眩暈が、止まらない。


「落ち着きなよ、始くん。此処は『現実じゃない』」


「ぇ、え…え……?」


「周りを見なよ。どこに腕がある?どこに血がある?」



ゆっくりと重い頭を回す。


無い。



転がる腕も、赤い血も。





「『贄』『贄』『贄』…」


奥でゆらりと立ち上がった影に、腕は戻っている。


「彼女が…正確には『彼女に憑いた夢魔』が、この場に『夢を堕としている』ん だよ。今、この家は夢と現が混じり合って、夢幻に続く裏路地の様な状態になっ てる。……早く何とかしないと、彼女が夢魔に呑まれてしまう」


よく理解出来ていない。ただ、ここは『何が起きてもおかしくない空間』である こと、優子の身が危険に晒されていることは切に理解した。



―――――この路地、夢と現が交じってる場所だから、慣れない人間が迂闊に入 ると戻れなくなったりする。



突如、何時かに聞いた龍之介の声が響いた。


「こ……ここから…逃げられるの?それに、優子センパイだって……」

「さぁね。ただ…君なら何とか出切る気がするよ。『特別な存在』の君ならね」

「む…無責任な……」

と、恭平の抗議は虚しく消える。


後ろから襟首を強く引かれた。そのすぐ側を、黒い霧が掠める。


「早く!いつまでもぼんやりしてると、君本当に『贄』にされるよ」


言うと、幸季は黒い霧へ一発弾丸を見舞う。


徒競走よろしく、それを始まりの合図に恭平は慌てて駆け出した。








リビングを飛び出し、恭平は左へ曲がる。

そこには、すぐに玄関が見えた。


扉を目掛けて全力で走る。後ろからは、幸季の放つ銃声が絶え間なく響いた。


靴も拾わず、恭平は玄関の扉へ飛び付き、ドアノブを回して扉を押した。


簡単に開いた、扉。


その先は…



「ぇ、と、トイレ?」


いくら何でも、家の構造からして有り得なかった。


「こ、幸季!!出口がトイレ…!」

「そこから出たいならどうぞ。僕はごめんだね…!」


銃声一発、霧を散らせる。


「ど、どーなってんのさー!!!」

銃で応戦する幸季の横をすり抜け、恭平は階段を駈け登った。


その先も、いくら扉を開けても有り得ない空間へと繋がって行く。

窓は開かない。壁を壊すにも、そんな時間が有る訳でもない。


黒い霧は、徐々に二人を追い詰めていく。


「幸季…!あれ、倒すとかできないの!?」


二度行き着いたトイレの前で、恭平は叫んだ。


「出来たらやってるよ。力が強過ぎて、今のままでは僕には封ぜない」

「役立たずじゃんか…!」


隣りの扉を開ける。三度、トイレ。


「勝手に敵地に飛び込んで、殺されかけた奴に言われたくないね…!」


ついには扉の先にも霧が待ち受けていた。

恭平の横を、弾丸が通る。


「出口なんて無いよ…!大体幸季はどうやって入ったのさ!」


次の扉を開ける。おそらく両親のものと思われる、寝室だった。


「入るのは簡単だよ、ただ飛び込めばいい。でもそこから出るには、出口を探さ なくちゃならない。迷路と同じさ」


クローゼットから、霧が吹き出してきた。

恭平は慌てて扉を閉め、次の扉を探す。


幾度上がったか分からない階段を、また駆け上がる。

手近のドアに飛び付き、ドアノブに手をかけた。


ふと、思い立った。


―――――そういえば、ここは西野の部屋だったはずだ。


ドアノブを回して、引く。


リビングだった。


また閉めては、引く。



「何やってるのさ始くん…」


「…無い」


西野の部屋が、無い。


今まで幾度と開いた扉の先に、西野の部屋は一度として現れなかった。


「もしかしたら、出口は……」



「『贄』…」


ひたひたと、幸季の肩越し、恭平の目線の先から足音が迫る。


廊下をゆらゆらと、優子がこちらへ向かって歩いてくる。

その周りは、先が見えないくらいに厚い黒い霧が渦巻いていた。


銃声が、その影を退けようと響くが、影は歩みを止めない。


「西野の部屋…西野の部屋が出口なのに……」



影が迫る。銃声は止まない。


「早く『贄』を…」


気付けば、恭平の足下に霧が絡まりついていた。


「!」


止んだと思っていた頭痛が、ぶり返す。





『選ばれし贄を………眠れる夢還者、始恭平を捧げよ……』





―――――眠れる、何だって…?



また、恭平に知らない声が語りかけてきた。





「…やっと来た」


傍らの幸季の声で、はっと我に帰る。


と同時に、隣りの扉が開かれた。


「ぇ、え!佐伯さん!!」

「遅いですよ、龍さん」


扉から出た龍之介は、迫る影を見据えた。


「…呼んでおいて。『籠』は?」


幸季が、小さな何かを龍之介に投げ渡した。


小さな、箱のような形をした『籠』。銀色に光るそれには、同じぐらいの大きさ をした南京錠が、錠をせずにかけてあった。


「…お前もとんでもないな奴に捕まったね」


龍之介は、恭平に目線を移し、言う。


「あぁ…はい……いや、優子センパイは悪くない……」

「違う。紫水に、だ。あいつの人使いの荒さは……まぁ、いいや」



背に負った包みを開けると、そこに日本刀が姿を現した。


「あまり時間をかけると、給料減る」


闇に浮かぶ刃が、頼もしく閃いた。





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